2002年くらいだったか。
寧波空港のショップで売られていたセーターのラベルを見ると、
広東省の工場の連絡先が記載されていた。
当時、上海周辺や吉林の工場で生産を順調に伸ばしていたが、
私の関心は、南の方へ向いていった。
以前から行きたいと思っていた広州の衣料品市場へ行き、
その広大さに驚いたものだ。
広州では、白馬市場、流花市場、新大地市場などの
衣料品市場が、広州駅の近くに集結しており、
そのそばにあった新大地賓館を定宿とし、毎月通うようになった。
工場ではなく、市場でスポットでセーターを仕入れたりするうちに、
広東省でも主力となる工場を探すべきだと思い、
現地で通訳をしてくれる人を探すことに。
ネットで募集すると、
何人かの応募があった中に劉学明さんがいた。
新大地賓館で、初めて会った学明さんは、やや日本語がおぼつかなく、
怪しい喋り方でもあった。
それなのに、やたらにおしゃべりで、自分がいかに優れた人間であるかを
まくしたてた。(ように感じた)
「どうかな、あの人?
やっぱりちょっと心配だなあ。」と私たちは後ろ向きだった。
深センから通ってもらわなければならないことも、
ネックだと感じていたし。
次に会った時もやはり、これは合わないのではないかと諦めそうな私に、
もう一回だけ、仕事をしてみて、それから判断してもいいんじゃないですかと、
当時、濱本幸世さんに、アドバイスされた。
そしてさらに、翌月もお願いしてみることに・・。
という具合に、ご縁がなんとかつながり、その後学明さんは、
社員になってくれることに。
学明さんは、その後、あっと間に仕事を覚え、
持ち前の行動力を発揮して、
広東省でのものづくりを支える存在になっていく。
もともと素直で積極性があり、第一印象だけでは人はわからないと
思わせてくれた人でもあった。
実際、パワフルで、前向きなエネルギーを持つ人だった。
劉学明さんの思い出 ②
学明さんと、最初に牛肉ボールを食べたのはいつだったか?
初期のころ、学明さんといえば、「牛肉ボール」だった。
確か、潮州の名物料理で、鍋で食べると美味いのである。
普通は、10個も食べれば腹一杯なのだが、
学明さんは、30個という世界記録並みに、これを食べて、私たちを驚かせた。
私たちは、汕頭や、潮州、東莞のあたりの工場を探したりしていたが、
行くたびに、牛肉ボールの鍋を食べ、行くたびに、学明さんは
急速に太っていった。
学明さんは潮州という、ちょっと田舎の街出身だったのだが、
子供の頃の話を聞くと、
ちょうど私の父が、戦後、食べるものに苦労したのと似た幼少期を
過ごしたようだった。
だから、食べれる時に食べられるだけ食べるという感じで、
すごい食欲を発揮していたのだった。
そして、学明さんほどの体重の変化を見せたのは、
福島崇之さんくらいだろう。学明さんは、一旦急速に太り、のちに、理性を働かせて
食べることを覚え、また痩せていき、普通体型に戻っていった。
(最近は、また普通に中年太りをしているようだ)
学明さんと一緒にいった場所も様々だ。
まずは、広州に無数にある衣料品市場を
歩き回っている。
アクセサリー市場や、十三行市場、アフリカ人ばかりの市場や、
東莞の市場、中大市場などなど、いくら見ても、回りきれなかった。
珠海や佛山などの生地市場にもどんどん行った。
中大の周りの小さな縫製工場は、
バイクタクシーで、飛び込んでいった。
あの頃、回っていた無数の工場が、今では
SHEIN(中国の大手衣料通販)の商品を受託して、世界中にネットで売っているわけだ。
特に大朗にはよく通った。
学明さんが連れていってくれたのだ。
スーパーニットをやるようになって、大朗に行き着いた。
そこは、世界最大のセーターの街で、数百件のセーター工場があつまっていた。
柔道さんやモンゴルさんを探してきたのは学明さんだ。
当時開通したばかりの新幹線で、東莞へ行き、バイクタクシーで工場を回った。
バイクタクシーは、今では禁止されている場所が多いが、
当時の中国の空気を感じさせてくれるものだった。
学明さんとの思い出 ③
学明さんの実家には何度か行ったことがある。
潮州は、どちらかというと田舎の街だが、その潮州でも郊外といってもいいくらいの
場所だった。
それは8階建てのマンションではあったが、
エレベーターなどなくて、
部屋へ上がるのが、まずは大変で、
これを日々、階段で上り下りしているご両親はとても健康的だと思ったが
やはり大変なことだっただろう。
部屋に呼ばれて、お母さんとお父さんの手料理を
ご馳走になったこともある。
たくさんのお皿が並べられ、とても美味しい料理で、恐縮だった。
ご両親お二人とも、めちゃめちゃ、優しく感じがよく、
魅力的な人たちだった。
そういうご両親に学明さんは育てられた人なのだ。
自己肯定感を高くもって、何事もチャレンジしていく人。
その実家のマンションから車で15分ほど走ったら
唐辺さん。1時間ほど汕頭方面に走れば易誠さん。
易誠さんの近くの角の食堂は、何食べても絶品だったが、
右手に箸をもち、左手は常にハエを追い払うのに忙しかった。
ぜひ行きたいと思う。ハエがたくさんいても、それ以上に美味しかった。
学明さんの結婚式も思い出だ。
潮州のホテルに、親戚や友達がたくさん集まる中に、インデップからも数人。
我々インデップメンバーは、
大勢の来客の前で、管理者養成学校の「セールスガラス」を絶叫して、
これが日本の代表的な結婚式の歌か、さすが日本だ!と称賛された。
奥さんは日本人だが、学明さんのようなピュアな人は、
日本では、ほぼ見かけないので、いい人を選ばれたのではないかな。
学明さんのお陰で、
インデップは、もう一段成長できたと思う。
もう10年くらい前ではないか。
学明さんが、
「中国では最近、携帯で、お金のやり取りもできるんですよ」
と教えてくれた。
そのころ中国は、恐ろしいスピードで、情報化社会になり、
あっという間に、経済規模でも日本を追い抜いていった。
学明さんは、成長し変わりゆく中国を
象徴するような人でもあったと思う。